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本社に鎮まります一言主大神は、第二十一代雄略天皇(幼武尊)が葛城山に狩をされた時に、顕現されました。その時の次第が『古事記』『日本書紀』に伝えられていますが、『古事記』の伝承は次のようなものです。

またある時、天皇葛城山に登りでます時に、百宮つかさつかさの人ども、悉に紅き紐著けたる青摺の衣を給はりて服たり。その時にその向ひの山の尾より(尾根づたいに)、山の上に登る人あり。既に天皇の鹵簿に等しく、またその束装の状、また人衆も、相似て傾かず。ここに天皇望けたまひて、問はしめたまはく、「この倭の国に、吾を除きてまた王は無きを。今誰人かかくて行く」と問はしめたまひしかば、すなはち答へまをせる状も、天皇の命の如くなりき。ここに天皇いたく忿りて、矢刺したまひ、百官の人どもも、悉に矢刺しければ、ここにその人どももみな矢刺せり。かれ天皇また問ひたまはく、「その名を告らさね。ここに各名を告りて、矢弾たむ」とのりたまふ。ここに答へてのりたまはく、「吾まづ問はえたれば、吾まづ名告りせむ。吾は悪事も一言、善事も一言、言離の神、葛城一言主の大神なり」とのりたまひき。天皇ここに惶畏みて白したまはく、「恐し、我が大神、現しおみまさむとは、覚らざりき」と白して、大御刀また弓矢を始めて、百官の人どもの服せる衣服を脱かしてめて、拝み献りき。ここにその一言主の大神、手打ちてその奉物を受けたまひき。かれ天皇の還り幸でます時、その大神、山の末に満みて、長谷の山口に送りまつりき。かれこの一言主の大神は、その時に顕れたまへるなり

このように、一言主大神は天皇と同じ姿で葛城山に顕現され、雄略天皇はそれが大神であることを知り、大御刀・弓矢・百官どもの衣服を奉献したと伝えられています。このように天皇はこの一言主大神を深く崇敬され、大いに御神徳を得られたのであります。この大神が顕現された「神降」と伝える地に、一言主大神と幼武尊(雄略天皇)をお祀りするのが当神社であります。そして、この『古事記』が伝えるところによると、一言主大神は自ら「吾は悪事も一言、善事も一言、言離の神、葛城一言主の大神なり」と、その神としての神力をお示しになられております。そのためか、この神様を「一言さん」という親愛の情を込めた呼び方でお呼び申し、一言の願いであれば何ごとでもお聴き下さる神様として、里びとはもちろんのこと、古く全国各地からの信仰を集めております。

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全国一言主神御奉斎

総本社

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当社は全国各地の一言主神を奉斎する神社の総本社であり、全国各地には当社に参拝するための講があり、現在も篤い信仰を集めています。

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『文徳実録』
嘉祥三年(八五〇)十月辛亥、授葛木一言主神正三位。
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『三代実録』
貞観元年(八五九)正月二十七日甲申、奉授正三位勲二等葛木一言主神従二位。
貞観元年九月八日庚申、大和国一言主神、遣使奉幣、為風雨祈焉。
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延喜七年(九〇七)に成立した『延喜式』では「名神大社」に列せられ、月次・相嘗・新嘗の各祭りには官幣に
預かっていたことが記されております。天台宗を開いた最澄(伝教大師)も、延暦二十三年(八〇四)に入唐する際には、
当社に祈願したと伝えられており、後光嚴天皇からは正一位の神格を授かっています。

主な年中祭祀

歳旦祭(一月一日)

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新年を迎えることのできた喜びを神様に感謝申し上げるとともに、一年の安全・豊穣を祈念する祭りです。境内は十五日位まで、全国からの初詣客で賑わいます。

節分祭(二月三日頃)

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暮れから正月にかけて神社に返納された古札を、当神社では節分にお焚き上げします。古来、節分もまた「年越し」であると伝えられ、当神社でもそうした日としての行事が伝えられているわけです。また、この地方では節分にはその年の恵方に向かって、巻寿司を丸かじりにすると良い年になると伝えられております。

春の大祭(四月五日)

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一言主神社の春の大祭です。氏子地区の総代が奉仕して祭りを行います。また、毎年この日に必ず参拝しなければならないと古くから伝えられている氏子地区以外の講があります。

稲荷社祭(五月三日)

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境内末社の稲荷社の祭りです。湯立神事でその湯を飲んだりかかったりすれば、その年は流行病にかからないと伝えられております。

夏越祭(六月三十日)

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当神社では古式に則り夏越の大祓を行います。大祓は半年に一度行われ、日々の生活で付いてしまった穢れを祓い清めることで、清く正しい生活を保つ重要な神事です。また、この日は茅の輪くぐりを行い、体調を崩しやすい暑い夏を前に悪疫を除去し、無病息災を祈願します。

秋の大祭(御神火祭とも。九月十五日)

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一言主神社の秋の大祭です。拝殿奥の本殿の前に神火壇を作り、参詣者の願い事を記した祈祷串を焚きます。この祭りは火を祀るがゆえにとりわけ厳重な潔斎が必要で、祭りに奉仕する神官は、数日前より精進潔斎につとめ、前夜からはお籠りをします。祭り当日は宮司が祭典を行った後、神火壇に火をつけ、奉納された祈祷串を次々と火にくべていきます。天候に恵まれれば、参詣者に拝殿奥に上がって頂き、自らの手で祈祷串を火にくべて祈願をして頂くことになっております。もともと、一言主神社は葛城山で修行する修験者たちの信仰を集めており、葛城山に入峯する修験者は必ず参詣したといいます。また、社伝によると、室町時代にあたる文明十四年(一四八二)に藤原遠厚が、各地から神主・先達・山伏を当地に集め「火焚祈祷祭」を行った時にこの御神火祭も初まるといい、同様にこれに因む由緒を持つお守りとして、「一陽来復お守り」が当社には伝えられています。

座講祭(十月第二日曜日)

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一言主神社は、郷の総鎮守として十カ大字の氏子地区の崇敬を集めていますが、近世初期以前の氏子地区にはいろいろと変遷がありました。氏子地区の中にはそうした名残をとどめるものとして座が残されており、座講祭という祭りを伝えています。かつては十月十四、十五日に行われていましたが、社会環境の変化等により、現在では第二日曜日に行われています。各座では頭屋を決めて、三メートル程もある大きな竹の御幣を作るなどの準備をします。宮戸では頭屋が座に伝承されるムラサキを栽培して幣紙を染めるということから民俗学的に注目を集めています。そして、森脇、宮戸は別々に渡御するわけですが、その際、頭屋では、それぞれの座のしきたりに合わせた行事が執り行われます。行列の中心は御幣で、獅子神楽や天狗の面などが行列を作ります。また、宵宮祭として、各大字からススキ提灯や子供提灯の渡御があり、地区によっては垣内ごとに出るところもあって、これが一堂に会する様は当神社の秋の風物詩として参拝者の目を楽しませています。

一陽来復祭(冬至の日)

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冬至は「一陽来復」の護符を各家庭でお祀りする日とされていますが、当神社でもこの日の祭りを、夜中に行う秘儀として室町時代より伝えておりました。しかし、近年になって参詣社の熱意によって夕刻に行うようになり、誰もが参詣できる祭りになりました。この祭りは御神前にお灯明を献灯し、万物の霊を慰め、陽を迎えて再生を願い、招福を祈願する祭りです。このように献灯を行うことから、この祭りを献灯祭とも呼んでいます。

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